世界の偉人を巡る旅。レオナルド・ダ・ヴィンチの故郷イタリア・ヴィンチ村へ
2019~2020年のシーズン、実は美術、歴史好きの間では密かにあることで盛り上がっていたのです。
1519年5月2日、ひとりの天才が故郷イタリアから遠く、フランスで息を引き取りました。彼の名前はレオナルド・ダ・ヴィンチ。2019~2020年は、彼の没後500年のメモリアルイヤーでした。そのため各地でダ・ヴィンチの功績を讃える展覧会などが開催されていたのです。
メモリアルイヤーを記念して、美術、科学などさまざまな分野で後世に残る大きな偉業を成し遂げたダ・ヴィンチの生涯を辿る旅に出ましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチは一体何を残した人なのか
世界一有名な絵画と言っても過言ではない『モナ・リザ』の作者であることは間違いありません。もちろん他にも素晴らしい絵画を残しています。
さまざまな分野に精通していたと前述しましたが、美術はもちろん、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生物学、動植物学、生理学、気象学、天文学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学などに精通し、各分野で多くの業績と色々なアイディアをまとめた膨大な量の手稿(メモ)を残しました。
解剖学に関しては実際に騎馬像を作る依頼を受けた際には死んだ馬の解剖をし、筋肉や骨格から学び制作を始めました。また上下水道システムや、戦車、飛行機などたくさんアイディアを雇い主に提案していました。しかし残念ながら、当時は画期的すぎたり、情勢的になかなか協力を得られず実現はしなかったのです。
後世になって研究者たちがレオナルド・ダ・ヴィンチのアイディアを形にして検証しています。音楽の才能もあり、「リラ(おそらくリュート)」という楽器の名手だったとのこと。そして絵画においては「空気遠近法」という「遠くのものは色が変わり、境界がぼやける」という事象を絵画に起こす方法を生み出しました。
つまり500年前に、この先の人類がたどり着くさまざまな分野の技術や知恵を一人で持ち合わせ、後世に残したまさに「万能の天才」なのです。もし、あの時レオナルド・ダ・ヴィンチのアイディアが採用されていたら、歴史は変わっていたのかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチの出身地、ヴィンチ村へ
レオナルド・ダ・ヴィンチという名前ですが、「ヴィンチさん宅のレオナルド」ではないのです。正式な名前は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」といい、「ヴィンチ村のセル・ピエロの息子のレオナルド」なのです。
ヴィンチ村へはイタリア、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅から電車で西のエンポリ駅へ行き、さらにバスに乗り換えて向かいます。イタリアは国鉄と高速鉄道も発達しているので、この中央駅はミラノやローマなどからの電車も集まってくるため、ホームがたくさんあリます。私は前日に切符を買っておき当日ホームを探すだけにしておきました。
切符売り場は一か所しかありません。エンポリ駅まで、往復のチケットを買っておきましょう。イタリアの鉄道は直前まで自分が乗りたい電車がどのホームに来るかがわかりません。いつもたくさんの人が電光掲示板を見ていて、目当ての電車が表示されると一斉にそのホームに向かいます。
私は朝早く出発したので逆に誰もおらず、近くにいた駅員さん二人くらいに切符を見せてこの電車で間違いないかを確認しました。フィレンツェ旧市街は世界遺産に登録されているので、昔ながらの街並みが広がりますが、少し電車に乗ったら住宅街へと景色が変わります。
そして住宅街を抜けると、眼前にイタリアの田園風景が広がり始めます。エンポリ駅へは乗り換えなしで、ちゃんとアナウンスもしてくれるので、しばらくの間はスマホを置いて風景を楽しみましょう。景色を眺めているうちにあっという間にエンポリ駅につきます。
エンポリ駅について改札を出ると、売店が1店舗ありそこでバスのチケットを購入できます。エンポリ駅からバスは何路線かあり、私が行った時はこの時刻表のバス停からヴィンチ村行きのバスに乗りました。(念のため案内所で確認しました。)
ヴィンチ村へ行くバスも限られているので、到着した時間によっては待つことになるので注意が必要です。
海外のバスは日本のバスのように「次は◯◯」と言ってはくれません。この時ばかりはGoogle Mapをフル活用しましょう。運転手さんに「ヴィンチ村で降りたいから教えて欲しい」と言っても、英語がわかっていない可能性があります。イタリアも観光地は英語が通じますが、ちょっと田舎に行くと英語があまり通じません。
私も「バス!チケット!ホエア(Where)!?」と、まるで某テレビ番組に出てきそうなやり取りをイタリア人としました。最終的に私と運転手さんの会話を聞いていた乗客の方が、ヴィンチ村に着いたことを教えて下さりました。さぁ、いよいよヴィンチ村に到着です!
ヴィンチ村から生家へ
レオナルド・ダ・ヴィンチの生家はヴィンチ村の中心からさらに離れたアンキアーノという場所にあります。
徒歩かタクシーで行くことができると言われ、タクシーが見つからなかったこともあり、せっかくなので私は徒歩で向かいました。しばらくはちゃんとした車道沿いに歩いて行きましたが、「レオナルドの生家」という案内版が指していたのはなぜか森の中……。
ここは森ではなく実はオリーブ畑でした。要所要所に生家への案内版が出ていたので、よっぽど変なルートに挑戦しなければ大丈夫だと思います。(行きと帰りで道がわからなくなる私でも大丈夫でした)
オリーブ畑を抜けると突然道が開け、右に曲がると「レオナルド・ダ・ヴィンチの生家」が現れます。
ヴィンチ村からレオナルド・ダ・ヴィンチの生家を訪れた人のブログの多くは車での移動をお勧めしています。行きは結構な登り坂になるので、ご自身の体調と相談しながら行く方法を決めてくださいね。レオナルドの家は家が2軒あるうちの左手側です。
このタイプの家は「Casa Colonica」といい、地主が小作人を置いていた建物です。世界中に知らない人はいないレベルの歴史上の偉人が生まれた場所とは思えないほど小さいく、部屋も二部屋しかありません。
レオナルドの父親は公証人のセル・ピエロで、母親は農家の娘でカテリーナといいます。実は父親にはフィレンツェに婚約者がおり(!?)、カテリーナとも身分が大きく違ったために正式な結婚はしていませんでした。つまりレオナルドは「庶子(本妻以外の女性から生まれた子。私生児)」として生まれたのです。
かなり小さいうちに実の母親の元から引き離され父親のもとで育てられましたが、庶子の生まれであったため、良家の子供たちが教養として学ぶ古典(ラテン語や古代ギリシア語)を習うことはありませんでした。レオナルドは大人になってから教養人として、古典を身につけたのです。
入り口からすぐの暖炉がある部屋には、レオナルドの生涯年表、家族やこの家の歴史などがパネルで説明されています。(内部は撮影禁止です)
実はレオナルドの出生は少々謎に包まれていて、この家で生まれなかった説もあるし、5歳までは母親のもとで育ったという説もあります。(ヴィンチ村の記録簿には、レオナルドが5歳の時に登録されたものしかないため)
隣の部屋では英語とイタリア語で年老いたレオナルドが自身の生涯を語る映像が流れます。フィレンツェ、ミラノ、フランスとゆかりのある場所が映像で紹介されるのでなかなか見応えがあります。また、チケットオフィスの左手には、現存する唯一の壁画『最後の晩餐』が1:2の縮尺で投射されており、指定した絵の場所の拡大画像を見ることができます。
小さい家ながらも裏手にはトスカーナの山並みが広がっていて、豊かな自然にしばし時を忘れてしまいます。
前述したとおり、レオナルドは自身で「空気遠近法」という画法を生み出しました。「遠くのものは色が変わり、境界がぼやける」という現象を絵に表してきましたが、幼い頃からこんな自然に囲まれていたら、この現象は彼にとっては見たままの光景で、当たり前のことなんだろうな、と感じることができました。
ヴィンチ村のレオナルドゆかりの地
レオナルドの生家から来た道を戻ってヴィンチ村へ戻りましょう。ヴィンチ村の中にもレオナルドゆかりの場所があります。
サンタ・クローチェ教会
レオナルドが洗礼を受けた教会です。洗礼はキリスト教徒にとっては欠かせない儀式の一つです。出生にいろいろ謎の部分がありますが、このサンタ・クローチェ教会で洗礼を受けたことは確実です。
レオナルド博物館
何とこの小さい村の中にレオナルドの博物館が二つもあります。しかも二つの博物館の距離は一分程度。ここではレオナルドが発明したもの、膨大な量のメモに残されたアイディアを実際に復元したものが展示されています。
レオナルドは人や動物の骨格、筋肉などにも興味を持っていたため、実際に人を解剖してメモに残していました。(騎馬像をより躍動感あるものにするためにまず馬を解剖するところから始めるほど)私が一番驚いたのはダイビングスーツ!
私が行ったときはおそらく地元の小学生たちが授業で見学に来ていました。先生のイタリア語の授業がとても気になって、イタリア語ができたらなぁ~と心から思いました。
偉人知る歴史に触れる旅へ
人類史上最高の万能の天才の誕生は、田舎のとても小さな小さな家でのできごとでした。実の母親から引き離されて、良家の子供としての教育は受けられず、恵まれた環境で育ったわけではありませんでした。
後にレオナルドは芸術の都・フィレンツェで才能を花開かせて行きます。しかし、その才能の原点は間違いなくこの美しい自然に囲まれた小さな村だったのです。次の記事では、才能が花開いたフィレンツェでのレオナルド・ダ・ヴィンチの活躍をお伝えしたいと思います。