フィレンツェで才能を開花させた、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画を訪ねて
イタリア中部トスカーナ州の「花の都」フィレンツェ。15世紀にルネサンス文化が花開き、数多くの才能豊かな芸術家たちがこの場所に集いました。芸術を愛したメディチ家の庇護のもと、芸術家たちは時に競い合いながらその才能を開花させていきました。レオナルド・ダ・ヴィンチもその一人。
彼の芸術家としてのデビューと作品を追いかけていきましょう。
フィレンツェってどんな街?
「フィレンツェ」の語源は、古代ローマ時代に花の女神「フローラ」の街として「フローレンティア」と名付けられ、フィレンツェとなりました。(英語では「フローレンス」と呼ばれます)
フィレンツェは古代にエトルリア人(イタリアの先住民)によって建設されましたが、直接の起源はあのユリウス・カエサルによって土地を与えられた退役軍人たちが、ローマの植民都市として都市建設されたことに始まります。
一時期神聖ローマ帝国が支配をしていたこともありますが、次第に中小貴族や商人達の支配体制が整い、12世紀に自治都市、13世紀に共和制となりました(フィレンツェ共和国)。遠隔都市との交易、毛織物業などの製造業、そして金融業でフィレンツェ市民は次第に莫大な富を手にするようになります。
そこで金融業で力をつけたのがメディチ家でした。商人と銀行家は市政の中心となり、フィレンツェを美しい街にする事業に着手し始めます。市民が力をつけ始めると、当然富裕層(貴族)と対立関係となります。
メディチ家のコジモ・デ・メディチは一時的に貴族派によってフィレンツェから追放されますがやがて復帰し、敵対者を追放。下層階級と手を結び名目上は一市民でありながら実質上フィレンツェ共和国の支配者となります。
孫のロレンツォの時代にその栄華は頂点に、フィレンツェはルネサンスの中心地として黄金期を迎えます。ロレンツォは学問と芸術を厚く庇護し、画家のボッティチェリや人文主義者を集めました。
やがて建築、絵画、彫刻においてルネサンス芸術はフィレンツェで大きく花開き、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠がフィレンツェで大活躍したのです。
第二次世界大戦中、フィレンツェはイタリア北部を占領していたドイツ軍によって脅威にさらされましたが奇跡的に攻撃をまぬがれ多くの建物が残りました。しかし連合軍とドイツ軍との戦いで、アルノ川にかかる橋はヴェッキオ橋以外すべて破壊されてしまったのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、師匠を引退に追い込む?
フィレンツェにはルネサンス期の傑作を展示する美術館、博物館が数多く存在します。ウフィッツィ美術館、パラティーナ美術館(ピッティ宮殿)、アカデミア美術館など有名な美術館がたくさんありますが、レオナルドの初期の傑作絵画はウフィッツィ美術館に展示されています。
さて、レオナルドが故郷のヴィンチ村からフィレンツェにやってきたのは、1466年、14歳の時でした。幼い時から絵の才能を発揮していたレオナルドは、当時フィレンツェで最も優れた工房の一つを主宰していた芸術家のヴェロッキオに弟子入りします。
もちろん最初は下働きから始まりましたが、着実にその才能に磨きをかけていきました。ドローイング、絵画、彫刻だけでなく、設計、化学、機械工学、金属加工、石膏鋳型鋳造などその才能は多岐にわたっていました。
ヴェロッキオは自分自身の絵画作品である『キリストの洗礼』において、レオナルドに洗礼を受けるキリストと、洗礼者ヨハネの脇に天使を描くように指示します。(ヴェロッキオ、レオナルドの合作となっていますが、ボッティチェリもこの絵画の制作に参加しています)その絵画がこちら。左端の天使がレオナルドによって描かれました。
柔らかそうな天使の金色の巻き毛、キリストを見つめる瞳、バラ色の頬と唇、衣擦れの音が聞こえてきそうな優雅なマント。
ヴェロッキオはこの作品を最後に、絵筆をとることをやめたと伝えられています。その理由はレオナルドがあまりにも「上手すぎた」から、あるいは本業の彫刻に専念するためともいわれています。どっちにしろ10代の弟子に、こんな見事な天使を描かれたら絵描くのもやめたくなるのもわかりますよね。
ちなみに後の調査によって、この絵の風景のほとんどをレオナルドが描いたという事がわかっています。(これはヴェロッキオ師匠、まちがいなくやめたくなりますね…)このように、レオナルドは芸術の都で才能を更に開花させていきます。
天使が舞い降りてきた!一線を画す『受胎告知』
ウフィッツィ美術館には「ダ・ヴィンチの部屋」として彼の作品が一か所に集められています。そこで目を引く横長の作品。
聖母マリアに天使が「神の子を身ごもった」と伝えに来た瞬間を捉えた『受胎告知』です。この作品は1472年から1475年ごろに描かれました。事実上のデビュー作品です。レオナルドは1452年生まれ。つまりこの作品に携わったときは20歳前後ということです。
この作品にレオナルドは自分自身が持つ才能と技術を、初っ端からふんだんにちりばめました。『受胎告知』は西洋のキリスト教絵画においては非常によく描かれたテーマで、同じフィレンツェにあるサン・マルコ美術館のフラ・アンジェリコによる『受胎告知』も有名です。
上の絵はレオナルドと同じくフィレンツェで活躍し、『ヴィーナスの誕生』や『春』を描いたボッティチェリの『受胎告知』です。(メトロポリタン美術館に所蔵されています)
この絵は西洋絵画の世界で長きにわたり使われたテンペラ画(物質の乳化作用を利用して色を定着させる方法)で描かれました。
テンペラ画は油彩画(油絵具)の技術が急速に発展したため、15世紀半ばから急速に需要がなくなります。レオナルドの『受胎告知』はこの新しい技法の油彩で描かれました。この絵画で面白いポイントは4つ。
②、 空気遠近法
③、 アトリビュート
④、 聖母マリアの右手の長さ
①天使の翼の描き方
先ほどのボッティチェリの『受胎告知』の天使を見てから、レオナルドの天使と比べてみてください。レオナルドの天使の翼、本物の鳥の翼を描いているんです。当時天使の羽は金色など非現実的な色で描かれました。ボッティチェリの天使の翼も、白色ですがなんかふわふわしていて想像上の天使って感じがしますよね。
レオナルドは幼いころから自然に対し強い関心を持っていました。同時代の画家達と異なり、ただ美しく描くだけでなく、「自分自身がその目で見たもの」をそのまま描こうとしていました。ちなみにさらによく見ると、マリアの足元のタイルは素焼きの特徴である、砂粒やちょっとした粗まで尋常ではないくらい細かく描いています。
②空気遠近法で描かれた背景
マリアの書見台、建物の直線を伸ばしていくと、中央より少し上の一点に線が集まることが分かります。今は一般的になった遠近法も、ルネサンス期に発明され新しい技法でした。
確かにルネサンス以前の絵画を見ると平面的で、素人が見ても「それは無理があるだろう」というバランスになっているものも。でもこの遠近法によって、画面に広がりと奥行きを表現することが可能になったのです。
レオナルドは更に背景を「空気遠近法」という独自の技法で描きました。自然を厳しく観察していた彼だからこそ、「遠くのものは色が変化し、境界がぼやける」ということに気が付いたのです。『受胎告知』の背後の山々や風景は、この概念と技法に基づき、霞がかったように描かれています。
③アトリビュートとキリスト教への反抗?
「アトリビュート」とは西洋美術において、歴史や伝説上の人物、また神話に登場する神と関連付けられた物を指します。西洋絵画を見てると「これは誰?」と思う人も、注意深く持ち物や服の色などのアトリビュートを見ると誰が描かれているのか分かるようになります。
有名なものでは「白百合=純潔=聖母マリア」、「フクロウ=知恵の象徴=女神アテナ」などがあります。(英仏百年戦争のフランスの乙女、ジャンヌ・ダルクも純潔の象徴として、軍旗に白百合と聖母マリアを選びました)
聖母マリアを象徴するアトリビュートは前述した白百合(おしべのない)、天の真実を意味する青いマント、神の慈愛を表す赤い衣服など。そして『受胎告知』ではマリアの処女性を意味する「閉ざされた庭」がお決まりです。
フラ・アンジェリコの『受胎告知』は見事なまでにこのアトリビュートとルールに則っています。さて、ダ・ヴィンチの『受胎告知』はどうでしょうか?
・白百合→おしべがついている
・閉ざされた庭→とても開放的
また背景に描かれた山ですが、これはキリストを象徴しています。(神学上では山はキリストを表します)実は前述した遠近法の直線は、この背の高い山の頂点に収束します。
おしべはまさしく男性を象徴するものです。そして庭は「閉ざされた庭」として描かれず、レオナルドは背景の開放的な箇所とおしべを重なるように描いています。研究では「ダ・ヴィンチによる教会、キリスト教への反発」ではないかといわれていますが、実際のところはわかりません。
絵を注文した人もこのテーマの絵画のルールは知っているはずなのに、なぜそのままになったのかも謎です。『ダ・ヴィンチコード』が流行った時、キリストは「神の子」ではなく、人間であるという主張もたくさん紹介されました。
しっかりとヨセフとマリアから生まれた、子孫も残したなど。(そのためこの小説は一部のキリスト教信者からは猛反発を受けました)そういう説も踏まえてこの絵を見ると、また一層興味深い絵になりますね。
④聖母マリアの右手の長さ
言われてみたら…というレベルですが、若干マリアの右手が左手よりも長く描かれています。デッサンミスではなく、きちんと理由があったようなのです。この『受胎告知』は目線よりも高い位置に飾られ、作品の右下あたりから鑑賞されることが予定されてされていた作品だったようです。
その点を意識しつつ、レオナルドは右手を少し長く描くことによって、正面から見るよりも絶妙な奥行き、遠近感をもたらしました。天使とマリアのちょっと開いた距離も、この遠近感、奥行き感の演出に一役買っていると研究されています。
繰り返しますが、この絵を描いたときのダ・ヴィンチは20歳です。今もこの絵の前では正面から鑑賞している人もいれば、わざと右の方から見て遠近法を確かめて楽しんでいる人がいます。
未完の大作『東方三博士の礼拝(マギの礼拝)』
ウフィッツィ美術館の「ダ・ヴィンチの部屋」に、完成していない絵が1枚飾られています。それが『東方三博士(マギ)の礼拝』です。1481年ごろに制作されました。イエス・キリストの誕生を祝福するために、東方より賢者達(マギ)がベツレヘムを訪れた時の1シーンです。(博士や賢者を意味するギリシア語のマゴイ(複数系)がラテン語に変化してマギとなりました)
この作品はフィレンツェのサン・ドナト・ア・スコペト修道院より依頼を受け描いていたものですが、翌年ミラノへ旅立ったので未完となりました。なぜ未完のままになってしまったのか、考えられる理由が二つあります。
契約上の問題
この絵を発注した修道院は、公証人である父親のセル・ピエロの取引先でした。この絵の報酬は何と土地だったのです。この土地はレオナルドが使ってもいいし、売ってもいい。また望めば修道院が3年後に買い戻すという条件の一方で、何故か見ず知らずの女性の持参金を支払うという条件もついていました。
さっぱりわからないですよね?この支払いの方法は当時でも珍しい支払いの方法でした。しかしこの方法は現金収入ではないので、レオナルドは色付けの顔料も買えないほど困窮してしまいました。前借を申し出ても断られてしまったので、資金難になり絵を完成させられなかったという説。
奇抜すぎるデザイン
『東方三博士の礼拝』もキリスト教絵画の中でたくさんの画家に描かれてきたテーマです。上記写真もそのひとつ。イエスの誕生を祝うために現れた三博士にもちゃんと名前があり、イエスへの贈り物も決まっています。
・バルタザール…壮年の姿の賢者。乳香(神性の象徴)を贈る
・カスパール…老人の姿の賢者。没薬(将来の受難である死の象徴)を贈る
生まれたばっかりなのに死の象徴を贈るなんて失礼と思ってしまいますが、キリスト教絵画では将来の受難(十字架にかけられること)を暗示するアトリビュートが描かれていることが多いです。
前述したとおり三博士は三世代の男性で描かれます。しかしレオナルドの絵は二人の老人と一人の若者の姿で描かれています。他の絵と比べて多くの人に囲まれてしまい、「これが三博士だ!」と断定ができないですよね。
レオナルドは伝統的な人物の配置は「本物らしさ」に欠けるとわざと斬新な構図にし、その為教会や修道院から受け入れられずトラブルになったのではないかと推測されています。レオナルドはミラノで描いた『岩窟の聖母』でも、登場する人物たちをはっきりと聖人として描かず(聖人を表す光輪を描かない、天使の羽を描かない)契約違反とトラブルになりました。
この『岩窟の聖母』はパリのルーブル美術館とロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されています。あくまで「人」として聖人たちを描いた方がルーブル(左)に。光輪や天使の羽を描いた方がナショナル・ギャラリー(右)にあります。
愛され続けるレオナルド・ダ・ヴィンチの魅力
天才はなかなかこだわり強めで、周りの人はきっと大変だったでしょうね。でもそのこだわりが、現在も多くの人が彼の作品に魅了されているのだと思います。
彼の思考、こだわり、豊富な知識、奇抜なアイディア。一つ知るたびに、死後500年経ってもより一層彼の作品が魅力的になっていきますね。