東京の都市部を結ぶJR山手線の沿線でありながら、家賃や物価が比較的リーズナブルであることから暮らしやすいと評判の新宿区高田馬場。その駅前にミャンマー関連のお店が集まるリトルヤンゴンと呼ばれる地域が存在します。

なぜ、高田馬場にミャンマー人のコミュニティができあがったのでしょうか?

日本ミャンマー・カルチャーセンターの所長・マヘーマーさんと落合さんにお話をお聞きしました。

ミャンマーの政治的状況から生まれたリトルヤンゴン

──高田馬場にリトルヤンゴンができた時期は?

 

マヘーマーさん ミャンマーでは88年にクーデターによって軍事政権が樹立して以降、民主化運動のリーダーだったアウンサウンスーチーさんが軟禁されるなど、国内情勢が非常に不安定になっていました。

民主化運動の担い手が学生だったことで大学が封鎖されたこともあり、新たな環境を求めて海外に脱出する若者が増えたんです。

 

落合さん 90年代に入って、面倒見のいいミャンマー人夫婦が住んでいた新宿の中井駅周辺にミャンマー人が集まって暮らすようになり、僧院、料理店、輸入雑貨店などができ、そこに最初のリトルヤンゴンができました。

しかし、当時の軍事政権は海外渡航のためのビザやパスポートの発給に関して非常に厳しいこともあって、ビザの期限が切れてオーバーステイになる人や難民になる人も多かった。

そのため、外国人の存在が目立ってしまう中井のような住宅街よりも、都市部のほうが人混みに紛れられるからなどの理由で高田馬場に移ってきたようです。

──軍事政権から民主政権に政治体制が変わったことで、リトルヤンゴンの在り方も変わりましたか?

 

マヘーマーさん 軍事政権時代は在日ミャンマー人同士でも軍事政権支持派と民主化支持派の間ではほとんど交流がなかったほど分断されていました。でも、今では同じミャンマー人として手を取り合って生活しているので、状況は大きく変わったと感じています。

当時は家族への国際電話も盗聴されていたほど情報統制が敷かれていましたから、そのころに日本にやってきたミャンマー人は日本社会でのルールがわからずに苦労したことも多かったでしょうし、いろいろな軋轢も生まれたはずです。

しかし、民主化以降に日本にやってくるミャンマー人たちは自国内で言論の自由やグローバルな価値観にも触れていますので、海外での暮らしに馴染みやすい人が増えているように思います。

 

落合さん 2011年に民主化されて以降はビザやパスポートの発給もスムーズになり、今、リトルヤンゴンにいる在日ミャンマー人のほとんどが正規の滞在資格を所有しています。

かつてはオーバーステイの関係で、仕事以外の活動範囲はコミュニティ内にとどまっていることが多かったのですが、最近は余暇や交流などにおいて、その範囲は広がってきています。

近年、リトルヤンゴンのミャンマー関連のお店が減少傾向にあるのは、そうしたことの影響ではないかと考えています。

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