【東京都】「佃煮」は、なぜ江戸っ子の食卓に欠かせない味になったのか
昔ながらの東京の家庭では、必ずと言っていいほど食卓の端っこに置かれている「佃煮」が乗った小皿。甘みがあり、ご飯に乗せて食べるととてもおいしいのですが、だいたいメインのおかずは他にあります。
佃煮は、あくまで引き立て役。とはいえ、東京の家庭の食卓には欠かせない「ご飯のお供」なんです。
佃煮はおいしいだけじゃなく天然の「健康食」
海産物や野菜など多種多様な素材を甘辛く煮込んだ佃煮には、ビタミン、ミネラル、鉄分などの栄養がたっぷりと含まれていて、古くから江戸の人々の健康を支えてきました。
佃煮の具材に使われるのは、昆布やごぼう、あさり、海老、しらすなど様々。珍しいものでは「あみ」と呼ばれる海老のような見た目の小型の甲殻類や、うなぎ、穴子、カツオなども佃煮が作られていて、その数は主なものだけでも118種類もあると言われています。
たとえばコンビニで売っているおにぎりには昆布の佃煮が入っていますし、お弁当にも小魚や海苔などが使われています。特別意識していなくても、佃煮は私たちの生活に欠かせないものになっているのです。
「本能寺の変」が佃煮を生んだ?
佃煮のルーツは諸説ありますが、一説によると徳川家康が深く関わっているようです。
1582年6月2日、本能寺の変。織田信長が明智光秀の謀反に倒れたとき、大阪の堺にいた徳川家康は明智の追っ手から逃れるため、大阪を脱出しようとしました。しかし、神崎川を渡るための舟が見つからず、立ち往生。そのときに近くの佃村の漁民たちが、舟と備蓄していた食料を家康に提供し、家康は九死に一生を得たそうです。
家康はこの恩を忘れず、江戸に幕府を開いたのち、佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せて佃島に住ませ、特別に漁業権を与えました。この佃島の漁民たちが、悪天候時の非常食や漁に出るときの保存食として小魚や貝類を塩や醤油で甘辛く煮詰めて食べていたものが、江戸の佃煮文化の始まりだと言われています。
購入は、新橋玉木屋より。