続いて訪ねたのは大分県は中津市にある耶馬溪。

「溪」という文字通り、周りは山に囲まれ、そばには川が流れる溪谷地帯です。

原付旅にはもってこい(つまりツーリングする人にとっても最高)な場所で、空気の美味しさや自然の美しさがたまりません!


紅葉の季節には観光客が後を絶たないこの土地に、同世代(20代中盤)ながら大きなビジョンを一歩ずつ進めている方がいます。親しみをこめて、以下「太くん」と呼ばせていただきます。

松木 太
森と人と、それぞれが持つ個性や才能を生かし合えるような関係性のデザインを探求中。100の手仕事を持つ百姓コミュニティの里山を描きながら、心地いいと思う暮らしや仕事をコツコツ、ゆっくりとつくっています。暮らしをつくるシェアハウスhitotose発起人。
note:https://note.com/futoshi_0818

太くんは大学卒業後に地域おこし協力隊として、大分県耶馬溪へと移住。3年ほど経った今、地域に根ざしながら、地域外の人も訪れる拠点となりつつあるシェアハウスhitotoseを運営しています。

そんな太くんの夢は「村をつくりたい」ということ。

大きな夢を持った太くんに、これまでの生い立ちや夢半ばにいる今のリアルを聞いてきました。

やりたいことで生きていく

hitotose(太くんが住むシェアハウス)ではお世話になってます!今日は太くんのことを根掘り葉掘り聞きたいなと思っています。まずそもそもなんだけど、耶馬溪にはどうして住み始めたんですか?

ひぐ

太くん

耶馬溪は、祖父の暮らしがある場所なんです。小さい頃から、よく遊びにきていて良い場所だなと思っていました。でも、祖父母の耶馬溪での生活は徐々につくりあげられた場所でした。
それはつまり、どういうことですか?

ひぐ

太くん

はじめ、耶馬溪は祖父母の別荘的な場所だったんです。ただ、特に整備されたものは多くなくて。そんななかでも、祖父母は自分たちが住む小屋や畑など、色んなものを自分たちの手でつくっていました。その姿が印象に残っていることもあって、耶馬溪に住みたいと中学生の時から思っていました。
おじいちゃんおばあちゃんの影響が大きかったんですね。

ひぐ

太くん

そうですね。父が転勤族だったこともあり、東京や北九州にも住んでいました。特に東京は受験期だったこともありますが、競争社会のど真ん中を感じて。それがしんどかったんです。
子どもの時に色々な場所での暮らしがあったから、大学卒業後に耶馬溪に住むことを選択できたのだと思います。

価値があっても、続けられない違和感

なるほど。同い年(太くんと僕は同じ95年生まれ)って、まずは東京で実力をつけようと思って就職をするという発想の人も多いような気がします。

ひぐ

太くん

それはありますね。これまでのことを少し話すと、大学は農業系の大学に入学して、農業サークルに入っていました。そこでは農家さんのお手伝いのため、遠征もするんです。

すごい楽しそう!

ひぐ

太くん

そう、ワイワイした作業の時間は楽しくて、農家さんにも喜んでもらえて。こうした時間が続けば良いのにって思うものの、就活になるとみんな農業とは縁が切れてしまうんです。
それは稼ぐことができないから。その時、「続く仕組み」ということがとても大事なんだと痛感しました。

続けるためにビジネスを

「続く仕組みが大事だ」という考えに至って、その後はどんなことをしていたんですか?

ひぐ

太くん

お金にとらわれることで、続けたくても続けられないということへの違和感はあったんです。何をやるにもお金を生み出す必要があることに違和感を抱きつつ、とはいえ、お金のことを知らないと始まらないので、まずはビジネスを勉強する必要があると思ったんです。
ビジネスの勉強。勉強すると言っても何からすればいいのか分からなさそう……

ひぐ

太くん

それが幸運なことに友人から誘ってもらって、ジビエの販売を始めることになったんです。もともと座学より実践を通した学びの方が好きなので、実践を通じて、ビジネスを学ぼうと思いました。ちなみに、そこで”そうちゃん”とも出会いました。

太くん

そこからまた、とある出会いをきっかけに、そうちゃんと一緒にジビエの生産拠点を屋久島につくることになったんです。

違和感が指針となった屋久島時代

それはすごい出会い(笑)

ひぐ

太くん

そうなんです(笑)
そこでの出会いが今の自分たちの基盤になっているといっても過言ではありません。屋久島には自分たちが楽しめることで生きている大人たちがいたんです。仕事と生活の垣根もなくて、自由な生き方をしていました。

すごい素敵。やりたいことに向き合って生きている人たちからは良い”気”が流れてますよね。

ひぐ

太くん

そう、もちろんお金を使う場面はあるけれど、自分たちの好きな人たちと一緒に暮らしをつくっていく様子が印象に残っていて、今でも影響は受けていますね。

そして「未来塾」という、生きていく上で大事にしたい価値観やあり方を考える、合宿型のワークショップに参加したことも大きかったです。

未来塾、ですか?

ひぐ

太くん

自分の将来の指針を見つめるためのイベントでした。そこでは対話に重きを置いて、自分の価値観を見つめ直します。未来塾の最後に、今後の自分のアクションを宣言するのですが、そのときに初めて「村をつくる」という意志を持つことができました。

コストを抑える百姓の暮らし

壮大な目標ですよね、どういう流れで「村をつくる」という夢に行き着いたんですか?

ひぐ

太くん

農業サークル時代に遡ります。そのとき続くことが大事だと思って、ビジネスを勉強しましたが、やっぱり違和感は拭えなかったんです。
じゃあお金にとらわれない生き方をするときにどうしていくか、その答えのひとつが「村をつくる」ことだったんです。
続けるために、村をつくる

ひぐ

太くん

少し話は飛びますが、コストを抑える百姓の生き方ができたら良いと思いました。今では「百姓=農家」と思っている人も多いですが、ほんとは百の仕事をするから百姓なんです。
食べるものも、着る物も、住む場所も。百姓は生活に必要なものの多くを自分でつくることができるので、お金をできるだけ使わずに生きていけます。
なるほど、続けるためにはお金が必要ない生活をすれば良いってことですね。

ひぐ

太くん

そうです。ただ、ひとりで百姓をしようと思うと無理があります。農業サークル時代に、ひとりで農業することすら難しいと思ったので。戦わずに協力しあいながら生きることが大事だなって。だから、みんなで色んな”得意”を持ち寄って、そのコミュニティとして百姓のような生き方ができる村をつくりたいというのが今の目標です。

安心できるコミュニティで暮らしてく

素敵ですね、どんな村にしていきたいですか?

ひぐ

太くん

まずは一緒に暮らしを共にするメンバーが安心できる場所にしていきたいですね。今シェアハウスには自分を含めて6名が住んでいます。

太くん

それぞれが好きなことや得意なことを伸ばしていて、先ほど出てきたそうちゃんは地元の野菜の直売所の店長をしていたり、他のメンバーも古民家活用に取り組んでいたり、タイニーハウス(移動可能な小屋)づくりをしていたり。
ユニークながら、温かいメンバーが集まってますよね。

ひぐ

太くん

そうですね、対話ということは大事にしているので、お互いを尊重できるメンバーが集まっていると思います。そんな場所だからこそ、外からのお客さんも歓迎ですし、最近はコロナも落ち着いていることもあってか、遊びにきてくれる人が増えています。
すごく居心地良いですしね。

ひぐ

太くん

ありがとうございます(笑)
耶馬溪は景観が綺麗ですが、何もない場所。都会で成長しなければという人がゆっくりリフレッシュできる時間にしてくれたらと思っているので、気軽に遊びにきて欲しいですね。

新しい生き方への挑戦


「同世代でこんな生き方してる人がいるんだ」という刺激を受けた耶馬溪滞在になりました。人は環境によって大きく変わる生き物。僕も住む場所を平塚に移して、近所の友人たちと接する中で色々な価値観が変わっていきました。

人それぞれに、その人らしく生きられる暮らしはきっとある。そのことを強く感じましたし、都会に疲れた人にとって、hitotoseのような場所は生き方の新しい選択肢をもたらしてくれることだと思います。

旅は、本当に自分の生き方と向き合うきっかけになります。まだまだ色んな生き方を模索している最中ですが、これからも色んな暮らしに出会いに行こうと思います。

旅は、まだまだ続きます。

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